昭和44年9月23日 朝の御理解
御理解78節の、この最後のところの、を頂いて、そこから今日の御理解を頂きたいと思います。
御理解第78節「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」
その前には随分ございますけれども、今日この「神のおかげを知らぬから」というところね。「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる」と。そこから頂きたいと思います。
「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる」ということは、えー、神のおかげを知らぬから、難儀なことになる、という意味にも頂けるわけですね。それで前に、まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をたってしまう、というように、そういうことは、なるほど互い違いですね。
折角これだけの財産が出来たのに、その財産を譲り渡すものがいない。こんな大きな、やはり互い違いですね。けども、今日私は、この「神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る」と。「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる」ということはね。えー、神のおかげを知らんから、難儀な事になってくるということになります。
「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き」と。ね、その「神様の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ」ということは、これはもう全てのことにです、願う以上、思う以上のおかげの中に住まわせて頂く事が出来るぞと。
勿論健康だけじゃない、身代だけの事じゃない。全ての点にです、全ての点に、いー、おかげが受けられるぞ、ということなの。
ね、ここんところを一つ本当に分からせてもろうて、本当におかげを一つ頂かなければいけません。
そこでその、神の大恩の把握ですね。神の大恩と仰るが、その神の大恩の把握。神の大恩をしっかり握るということである。知るということである。ここでは何時もだから、天地の大恩ということを、天地、神の大恩ということ、天地の体得を分からせてもらう。
こう神の大恩とこういう、大変なこれは漠然な、大きな意味、ことなんですね、実をいうたら。
色々と難儀なことがある。お願いをする、おかげを受ける、という神様じゃなぁと、神様のおかげで命を頂いた。神様のおかげであのような問題が解決したと。なるほど神様のおかげとこう思いますけれどもね、私はここではね、神様の、神のおかげというのはそんなもんじゃないと。
病気を治してもらったから有り難いというようなもんじゃないと思う。勿論、そりゃ有り難いですよね。医者に見離されたり、薬に見離されたりした病気が助かっていくのですから、それは有り勝たいですけれども、ね、そのことのおかげ。あん時助けて頂いたご恩だけは忘れませんというような人がありますけれど。それだけではいけない。
ね、私はあの、昨夜、遅う便所にいってまた、今日の御霊様のお祭りの、いわば準備とでも申しましょうかね、今日のお祭りを受けられる御霊様達に、のための御祈念をさせて頂いとりましたら。神様の方で御祈念をしておりましたら、急にこの左の目が痛むんです。もう目の底がこう、きりきりきりきりとこう痛むんです。
これはもう何時も体験することですけれどもね、この痛いとか痒いとかというでしょう。またはお腹がすくということがありますね。その痛いとか痒いとかということはね、もう実をいうたらもう神様は自由自在です。今頂きよるとが手の平をかえすように、あの痛まなくなるぐらいなおかげを下さることは、もうそれこそあっけもないことです。
それを何時も体験する。ははー成る程してみると何々の病気でございます。とこういうけれどね、決して何々じゃないです。その病気というのはもう、いうなら神様のご都合という事。
神様のご都合ですよ、こげん痛み(あるとじゃ?)ね。だから信心させて頂いて神様にお願いをするということは、決してその病名が分かるということはいらんということ。何の病気でございますということはいらんていう事。問題はおかげさえ頂けばよいのであるということ。
昨日私、そんな風で目が痛みますから、直ぐその瞬間に私感じたことは、最近この目が見えるということだけでも大変なことなんだ。この目が見えるということだけでも、大変なおかげだと。時々目をつぶってみるがいい。目を開ける。はー、見える。もう本当に、全て目の前に、この広がってくる、目、視野に入ってくる、その見えるということがね、どのくらい有り難いことか。
だから、本当にこの見えるということだけにでも、しっかりお礼を申しあげにゃいけんということを、申します。そのことをですね、ふっと思い出させて頂きましたからね、はー本当に神様目が見えておりましたのに、ね、そのことがこう少し迂闊になってきよる。それ、もう気が付かせて頂いた途端、目がきりきりっと痛むのが治るんですからね。
その神様のこと、痛い痒い、自由自在です。その辺がすっきり信心が出来るようになりますとです、そういうおかげを受けられると思うんですね。
ですから私は思うのに、この神の大恩を知ればと。神様のご恩、神様のご恩というてもね、余りにも大きいし漠然としてますしね。ならこの五体の上におかげを受けておるということだけでもそうですもん。
目だけではありません。耳も聞こえております。ね、鼻も匂わせて頂く事が出来る。口は味わいを分からせて頂くことが出来る。ね、手は動いておる、足も動いておる。もういうなら、この五体の中、ことだけでも数、限りがありません。
ね、もう大小便にでもやらせて頂く時の有り難さね。もし出らなかったらどうするじゃろうかと一遍思うてみなきゃいけんです。もう本当に(開眼?)と申しますかね、(開通?)もう快い。大小便がいける時ほど私は有り難いなぁというその、私はあの、それがね、神の大恩を知ればという、その神の大恩につながることだと思うんです。
有り難いなぁと思うのが、有り難いというは何処へ行く。神様へ行く。ね、目が見えておるということだけにです、だからあの、あんまりばく、この神の大恩というように漠然といわずにね、いわば目の大恩という風に頂いたどうだろうか。ね、例えていうなら、申しますなら。
ね、しかもですよ、その「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き」と。「身代も出来、一年勝り代勝りのおかげ」に繋がっていくのですから。私共が願うて願うてやまないおかげに続いていくのですから。なるほどこりゃ信心ちゃみやすいことだなぁと思いますね。
問題はその、なら目が見えるということだけにでも、何時も見えておりますという事に対してお礼を申し上げる、私は心が何時もあったら、いいのですよ。それがね、神の大恩に繋がる。
小倉の初代、桂先生はね、水の大恩ということを非常に言われた。ね、ですからお水を使わせて頂く時にその、お水のね、もうその大恩ということがね、をかん、この、実感すると申しますかね。神の大恩を感ずるということは、その水の恩を感ずる時、すでにもう神の大恩を、に感しておるわけです。ね。
ですから、私最近は、その目が見えるということを、昨夜私が又目が痛いことが、まぁそのことふっとお、こう思い出した途端に、目の痛みが止まったというようなことからです、ね、「神の大恩を知れば、無事達者で」と仰るのですから。「子孫にも続き身代も出来」しかも一年勝り親の代よりも子の代に、繁盛していくおかげが受けられると仰るのですから、こりゃどうでも、その大恩を本当に分からなきゃいけません。ね。
だから時々有り難いと思うだけじゃいかん。というわけです。本当に目の大恩が分からせてもらうということ。目の、目の大恩。目が見えるということが有り難いと。もう目が見えるよるとは当たり前。耳が聞こえよるとは当たり前。ね、手足が動きよるとはもう当たり前。その当たり前というところには、感謝もなからなければ御礼もない。
そのことを私、頂きましたらですね。そのこれはあの、神様の方お礼を申させて頂いとい、昨日はもう、霊神様の前よりも、むしろ神様の前の方が長かったんですけれども、したらね、あの、霊神様が、のまぁ、私はお声だと思ったですね。
私がこうして、こう御祈念させて頂いております。右の方、左の方の耳はこれ、皆さんもご承知のように私は聞こえません。全然聞こえん。ところが、左の方の耳から入ってくるんです。こうやって御祈念をしておると。ですから、私は、やっぱ御霊様の方からだとこう思うた。
ね、それがね、★「やれ嬉や」と頂くですね。「やれ嬉や、喜ばしや」という声が、もう繰り返し繰り返し響いてくるんです。「やれ嬉や、やれ喜ばしや」と。そりゃ、どういうようなことに繋がることであろうと私は思う。皆さんどう思われます。
私がね、いわば目の大恩を感じてです、本当に日頃は見えておりますことに対するところのお礼を申しあげましょうち。当たり前のように思うておりますが、見えておるということの有り難さを、お礼を申させて頂いておる。ね、そこにね、私は今日は、その「神の大恩を知れば」とこう仰る。神の大恩を知ったわけです。
ね、目が見えておる、目の恩という事。目の恩が分かるということはね、もう神の恩に繋がる。なら目が見えておるということを、有り難いとこうお礼を申し上げておることは、神様に御礼を申し上げておること。
ね、何かここにもらわなければ、何かここに頂かなければ有り難いと思わないといったような、やはり信心が多いですね。願ったことが成就すりゃ有り難い。だから願う前にね、もうこのように沢山実をいうたら、いわゆる天地の大恩の中に生かされておるのでござい、天地のご恩徳の中に生かされておるのですから、その天地のご恩徳の中にあって、神の大恩に、感謝を捧げるということは当たり前だけれども、余りにも偉大である。大きい。そのご恩ね。
ですからそれが漠然として、そりゃ神様のご恩は忘れませんといったような程度に終わってしまう。これではいけないのです。ね、私はその、目が見えておるということだけにです、もうそれこそ、心からなる感謝の心というものが湧いてくるようになったらね。例えば頭が痛いなら頭が痛いとが治るでしょう。足が痛いなら、足が、の痛みが治るでしょう。というくらいに私思います。同時にしかもその有り難いというのは、無事達者に繋がり、同時にね、「子孫も続き、一年勝り代勝り」に繋がって来るのですから、どうでもこうでもですね、そこんところが分からにゃいかん。
ね、これは、あー、不思議なことですね。本当に目が見えておるということが有り難いということ。とお礼を申し上げる心が生まれてまいりますとです、もうそれに繋がってです、ね、有り難いなぁ、目が見えておる事が有り難いなぁというと。ここから、いわゆる水の恩も食物の恩も繋がってくる。
例えば目が見えておるということが有り難い。と本当に分かってくると、耳が聞こえておるということも有り難い、手が動いておるということも有り難いということに、いわゆるなるほど、神の大恩に繋がっていくことを感じます。ね、だから焦点を小さいところに、やはりおかなけれいけません。
ね、そのことがです、その神の大恩が分からせて頂いて有り難いとこう分からせて頂いた心で、私が明日受けられるね、御霊様のお祭りを受けることが出来られる、その御霊様へのご奉仕を明日させて頂くのですから。なるほど御霊様が「やれ嬉や、やれ喜ばしや」と仰るはずだと思います。ね、皆さんそうでしょうが。
汚い心で、不安、心配、悄愴の心で、いかに麗々しい御霊様のお祭りをしたって、御霊様が喜びなさるもんか。皆さんが今日は又一時のお祭りにね、それぞれがお供えを持ったり、来たり。皆で、家族中でお参りをさせて頂いても、本当に有り難いという心をもってお参りをさせて頂いて初めて、神の喜びであり、御霊の喜びになるのです。
参ったから喜ばれるのじゃない。いわゆる神の大恩を感じての、お参りでなかにゃいけないということ。ね、いらいらしたり、じがじがしたりするような心でいかにお参りしても、神様は喜びなさらん、御霊様は喜びなさらん。ね。
御霊様も「やれ嬉や、やれ喜ばしや」と、それを受けて下さるならです、私共の心の上にも、そのやれ嬉やというような心を持って、今日の御霊様のお祭りを奉仕し、又は拝ませてもらわなければいけないと思うんです。ね。ほりゃ心の準備がいりますね、お参りをさせて頂くのに。
しかもね、皆さん、そういうあり、「やれ嬉や、喜ばしや」という心がです、ね、「神の大恩を知れば、無事達者で」とこう仰る、そのね、神の大恩を知ることによって、嬉しい喜ばしいその心がです、心がですね。皆さんが一番願うておられるところの「身代も出来、子孫も続き、しかも年勝り代勝りにおかげが受けられる」それに繋がっていくというのですから、いよいよ有り難いでしょうが。
ね、目が見えておるということが有り難いと、もう本当に有り難いと分からせて頂いたら、ね、親がその気になってね、子供のことを願ったら子供がおかげ頂くでしょう。本当に「やれ嬉や、やれ喜ばしや」という心でです、ね、家内が主人のことを願ったら、主人が又家内のことを願ったら、全然ここには縁のない主人が又は家内がおかげを頂くでしょう。いわば(れいしょう?)にある病人が助かるでしょう。こりゃもう大変なおかげになってくるんですよね。おかげというのは。
先日、ある方がお参りさせてみえた。その毎日その、時間きって熱が出るち。それである所にお参りさせて頂いたら、その先祖の御霊様が、すがって来てござるち。それけんまぁ、(いらし?)言われる通りの事をさせて頂いた。
それでもおかげ頂かん。そしたら、次に言われる事が、ご祈祷不足じゃろうから、その人の着とる着物ば持って来なさいち仰った。それがどうにもその、着物ばそのままお供えせんならんごたる風な感じじゃった(ようなけん?)とうとうもうお参りしきりませんやったちうてから参ってきました。
ね、その人が着とる着物を、にご祈祷しなさる。そういう事で助かってもですね、助かるはずもないが、助かったところでですね、ちょっとおかしなことですよね。金光様のご信心を頂いておりますとです、例えば、あんなら家内が今日のところ分からせて頂いて、ね、本当に目の見えるということに本当に見えておることの喜ばしいということ。嬉しいと思うこと。
ね、本当に目の見えることに一遍でもお礼を申し上げた事があるだろうか。一遍こう目をつぶって、探り探りしてみるがええ。目が見えないということはこんなに不自由なことである。それを目を開ければ見える、見える。もう全てがこう見えて来る。その喜ばしさがね、その喜ばしさを持って願うところにです、家内がその願うならば、家に寝ておる主人の病気が治るだろうと私が言う。
家に寝ておる子供が助かるだろうとこういう。助かるだろうじゃない、助かるわけですよね。ね、それはどういう事、天、神の大恩が初めてそこに分かったからです、神の大恩が分かったから、ね、それは、まだ沢山あるけれども、その神の大恩の中の目が見えるという事ひとことだけでも、本当に分かったから、ね、神様もそれをやれ嬉し、喜ばしと思われるであろうわけなんです。
その心で願うもんですから、おかげにならんはずがない。ね、私の昨日、ご祈念、神様にご祈念中に左の耳から、繰り返し繰り返し入ってくるお言葉が、どうも御霊様の喜びの声のように感じた。ね、「やれ嬉しや、やれ喜ばしや」と。
明日の御霊様のお祭りを、ね、大坪総一郎という先生の奉仕を受ける事が出来るから、嬉しいだけじゃない。私の心の中に今湧いておるところの有り難いというその心を持って、奉仕して頂くという事が嬉しい、喜ばしいことになって来たわけなんです。
ね、だから皆さんも、今日の霊祭を拝ませてもらう。玉串をあげさせてもらう。ね、ウカラヤカラの御霊様達。ね、沢山今日のお祭りを受けられる事になりますが、ね、遺族の例えば、なら皆さんがです、ね、本当にこういう有り難い信心をさせて頂いて、このように例えば目が見えるということだけにでも、このように有り難い事柄を分からせてもらい、有り難いと日々生活させて頂いておるという事を持って、ね、例えば親先祖が喜ばれることが、こりゃ当たり前。
しかもその、有り難いその喜ばしい心で、神様へほ、又は御霊様へ奉仕をする。ね、そこに私は、今日の御霊さん、御霊祭、あのお祭りの、んー、一つの、んー、まぁ焦点とでも申しましょうかね、を置きたいと、思うておるのでございます。
ね、神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来る。どうぞ、商売繁盛。どうぞ、この病気を治して下さい。と、ことあらたてて言わんでも、願わんでも頼まんでも、ね、商売をするなら、商売の繁盛のきっかけが出来るでしょう。
ね、不健康であるなら、健康になるきっかけが出来るでしょう。それは例えば、目が見えるという事だけを心から、有り難しと嬉しと思わしてもろうて、そのことが、神様へお礼を申し上げられることになられたら、ね、神の大恩を知った事に繋がるのです。
又神の大恩に対する、お報いをすることになるのです。ね、その有り難い心で御霊様へ、の奉仕をするということは、しかも代勝りのおかげ。ね、子孫も続きと仰る。あー、もう大変なおかげに繋がってくること。
もうそのほんの、一番始めのところは、ほんの点で押しただけの事から、おかげ、本当のことからこう、おかげが受けられる事が分かりますね、信心とは。
ね、今も申しますように、目の見えておることが有り難いなぁと本当に分からせて頂くとですよ。耳が聞こえておることが有り難い。手足が動いておることが有り難い。そして、最後にはどういうことになるかというとですね、ね、もう全てのことの上におかげと感じれれるようになるということ。全ての事。
ね、それを、あれもおかげ、これもおかげとこう言うておられます。ね、あれもおかげこれもおかげと分かるようになると、本当の信者じゃとこう仰る。
昨夜の御理解に頂きましたんですけれど、先日私ある、ご本を読ませて頂いておりましたら、こういう事が書いてあった。「人は人なか、木は木なか」という言葉があるそうですね。これは、あの、鹿児島のここに、屋久島というところがあります。いわゆる、何千年と経った杉が密生しておる島です。
年前年の、いわゆるそういう材木の島ですね。「人は人なか、木は木なか」人は人の中です、木は材木の、この木の木ですね。木は木なか。それはどういう意味かというとですね、あの大きな、木がこう立っておるのを、中の一本を切りますとね、その周囲が段々そのままにしておくと枯れるという事です。不思議な事ですね。
材木がこう密生しとりましょう。その中を一本だけを切って放任しておきますとね、他の、かえって楽になりそうなんじゃけど、楽になるどころか、かえってです、周囲の木が枯れてくるそうです。
だから、「人は人なか。木は木なか」という、もう本当にこれは偉い人の言葉でもなんでもない。長年その事に当たった人達がです、体験から生まれた素晴らしい心理だと思いますね。心理の喝破です。
ね、そこでいわゆる人なかにあります。私共の周辺、周囲にはね、根性の悪い人もありゃ、ずるい人もあるでしょう。もうあの人がおらんなよかけれども、と思うことがあるでしょう。もうこげなもんな追い出したらええと思うような事があるでしょう。ね、人は人なかです。そういう自分で嫌でたまらんような人を、向こうの方へやろう、なんていうような、気持ちがあると、これ自身が枯れてくるということなんです。
そのように、例えば密接な関係が、自分の周囲には、のものとは繋がりがあるという事なんです。ね、お互い分からなきゃいけないですね。その人のところの、逃れたら、もう自分な楽になるごとあるけど、そりゃなるほど、切ったから楽にはなりましょう。そこを逃れたから楽にはなりましょう。という、楽にはなりましょうけれどもです、これ自身が枯れてくる。ね。
難しい人間関係が最近言われますけれどね、そういう人間関係も、人は人なかという理が分からせて頂いたら、自分には都合の悪い、自分はもう嫌でたまらん。自分をいじめる。といったような人でもです、やはり自分が立ち行くことの為にあるんだ、と分からせて頂いたら、それはやっぱり大事にしなければおられないという事。
だから、あれもおかげであり、これもおかげであると分かる。そういう大変な事まで分かって来るようになると思うんです。神の大恩を知れば、ね。
そこからね、あれもおかげである、これもおかげであると分かるところに、人間はもう極楽に住んでおるのも同じことなんです。自分の周囲が全部が、有り難いものの中に自分があるのですから、ね、そういう境地をお互い目指して、信心をさせて頂くわけでございますけれども、まずなんというても「神の大恩を知る」という、漠然としたことからです、ね、目が見えておるという事だけに、一つもうそれこそ、心からなる。
ね、お礼が言えれる、その、目が見えておるということだけに、本気で本当に喜ばしい事だと分からせてもらう。ね、しかもそれがね、ね、忘れる事なく、切れることなく。何時も目が見えておるという事だけに有り難いというものが分かっておると、全ての有り難いものにすながっていくこと、しかもそれが、子孫繁盛、いうまぁ、身近にいうなら皆さんでいうなら、商売繁盛に繋がることであり、皆さんの願いを持っておられるその願いが、成就して行くことに繋がることなんです。
ね、だから大変なことなんですよ。今日は78節の最後のところだけ、神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。互い違いになってくるということは、難儀なことになってくるという意味だと、私は申しましたね。
「信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き。身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る」。願うて願うてやまない、そういう願いが成就していくきっかけをつくるものは、私はもう本当に一滴の水に、有り難いという事が本当に分かるという事であると同時に、目が見えるということに対してです、本当に、本当に不思議な事だなぁ、目が、目に見えておるということが不思議でたまらんぐらいにですね、有り難うなってきたら、そういう大変なおかげに繋がっていく事を私は確信いたしますですね。
とりわけ、今日の御霊様のお祭りをまた拝まれなされなければなりません。その心準備としてです、ね、有り難いなぁという心を開かせて頂いて、御霊様にもそれこそ、やれ嬉しや、やれ喜ばしやと。喜んで頂けれるおかげを頂きたいと思いますね。どうぞ。
梶原 佳行